事実とは何か。人は自分が認識できたものしか事実にしない
今回は事実とは何かということについて、僕の考えを書きます。
言葉の意味として、事実は「実際に起こった物事」を指すとされています。また事実は客観的なもので、誰が見ても「実際に起こった物事」として認識されることです。
対して真実という言葉もあります。これは言葉の意味としては事実とほとんど同じですが、違いはそこに主観が入ることだとされています。
しかし僕はこの2つを区別しません。このブログの他記事にも書きましたが、この世には主観しかなく、客観などというものは存在しません。
物事を認識する主体は個人です。その個人が集まり、それぞれが全く同じように物事を認識し、それを客観と呼んでいるにすぎません。元は全て個人の主観です。
つまり、事実であれ真実であれ、それを認識しているのは個人の主観です。目にした物事を「実際に起きている」と認識するのは個人なのですから。そこに違いなんてありません。
さて、今回の本題はここからです。
事実も、真実と同様に、個人の主観のみで認識するものだとすると、それは1つとは限らなくなります。何が事実であるかは人によって異なるということです。
僕たちは「ほとんどの人が主観で実際に起きた・起こっていると認識した物事」を便宜上事実としています。
例を挙げます。
地球は丸い。これは事実であるとされています(実際は完全な球体とは言えないらしいですが)。しかし、僕はこれを人から教わったり、写真などで見たりした結果、自分の主観で事実だと認識したことにすぎません。
これは全ての人に共通して言えることだと思います。どれだけ客観的な事実として「地球は丸い」と言ったところで、そうだと認識する主体は個人です。
もっと言えば、「何かを客観的な事実とすること」さえ、個人の主観で判断しています。
ただ、自分で言うのも変ですが、こんなことばかり考えていても無駄なため、便宜上「地球は丸い」ということを「客観的な事実」としているわけです。なぜなら、ほとんどの人が主観的にそう認識しているからです。
話を少し変えます。
ほとんどの人が主観的に認識できた物事が客観的な事実であるとして、それを主観で認識できない人はどうすればいいのか。その人にとっての事実とは何であるのか。
例えば目や耳が不自由な人たちにとっての事実は、僕たちのそれと同じなのでしょうか。
もちろん、上に書いたように便宜上「客観的な事実」として彼らにそれを伝えることは可能です。そして、彼らがそれを主観で事実と判断することもできます。
しかし、彼らはそれを実際に認識することはできません。目の前に存在する物や鳴っている音を認識することはできません。
彼らにとっては「世界は真っ暗であるということ」や「世界は無音である」ということもまた事実なのです。
つまり彼らは自分で認識できた物事を事実とするか、人から教わった物事を事実とするかを主観的に判断します。
しかし、それ以外の人は自分で認識できたことしか事実にしません。
「地球は丸い」の例を再び持ち出すと、僕たちは地球を丸いとしか認識できないだけなのです。もしかすると、人間の目には丸いものだと見えていても、実際は違うのかもしれない。
しかし、人間の世界では丸いものだとすることしかできません。そうとしか認識できないのですから。
人とそれ以外の動物で見える形や色、聞こえる音が違うという話はよく耳にすると思います。このことは人間同士の間でも同じことではないでしょうか。
自分が事実だと思っていることは、あなたにとっての事実でしかなく、そうとは認識していない人もいます。逆に周りが事実だと思っていることを、あなたはそう認識していないこともあるかもしれません。
結局何が一番言いたいかというと、僕たちは何を事実として認識するか選んでいいということです。明らかに、一般的にはどう考えても事実だとは言えないことでも、あなた自身が事実だと思えば、それも1つの事実となるのです。
なぜなら、人が認識できないことが事実である可能性もあるからです。そして実際に自力では認識できないことを事実としている人も、中にはいるからです。
ただ、僕はめんどくさいので、今後もみんなが事実としていることを、主観的に事実と認識していくことにします。