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想ったことや考えたことについて好きなように書くエッセイブログ

人間は我慢なんてできない

今回は我慢することについて、僕が思っていることを書いていきます。

多くの人は我慢することは大事だと思っているでしょう。また、他人にも我慢することを求めていると思います。

 

しかし、本当に我慢することや他人に我慢を求めるのは正しいのでしょうか。

 

僕は我慢したいとき我慢し、我慢したくないときは我慢しなければいいと考えています。

 

元も子もないことを言っていますが、これが僕の結論です。

 

そもそも人は完全には我慢できません。なぜなら我慢するときというのは、何かを我慢してでも欲しい物あるいはやりたい事があるから我慢するのです。

 

要は何かを我慢しないために何かを我慢しているだけです。

結局、自分が欲しい物ややりたい事を選択しているだけです。

 

例えば、何かどうしても買いたい物があったとします。しかし、それを買ってしまうと生活費に影響してしまいます。そのような時、多くの人は欲しい物を買うことを我慢しようと思うでしょう。

しかし、それは生活費を使いたくなかっただけです。生活費が減ってしまいギリギリの生活をすることを我慢できなかっただけです。

ギリギリの生活を我慢し、生活費を使って欲しい物を買うことだってできます。

 

これが何かを我慢しないために、何かを我慢するということです。

 

他の例も出してみましょう。

 

仕事のある日だけど、どうしても遊びに行きたいと思っている人がいたとします。普通の人であれば、遊びに行くことを我慢して、仕事に行くでしょう。

しかしこれも上の例と同様に、仕事に行きたかっただけです。遊びに行きたいからなどという理由で会社に迷惑をかけたり、会社をクビになったりすることが我慢できなかっただけです。

それらを全て受け入れて、仕事に行くことを我慢し、遊びに行くことだってできます。

 

ここで取り上げた例はかなり極端ですし、僕だって生活費は使わないし、仕事を選びます。

 

最も言いたいことは完全に我慢することは不可能で、何かを我慢したときはすでに何かを我慢していないということです。

そのため人は我慢しなければいけないと思うのではなく、自分は何が欲しいのか、あるいは何がやりたいのか考え、さらにそれを達成するために何を切り捨てたら良いのかを考えることが重要だということです。

 

また、他人から我慢を求められることもよくあると思います。

しかし正直それは多くの場合、無視でいいと思います。

 

なぜなら、それは他人が自分の欲求を満たすために相手に我慢を求めているだけなのですから。

 

例えば、恋人があなたに1人の時間を我慢して欲しいと言ってきたとします。しかし、これはその恋人がもっとあなたと一緒にいたいから、そう言っただけです。あなたのためではありません。あなたが1人の時間を大切にしたいのであれば無視する方がいいと考えられます。

 

しかし、あなた自身がどう思っているのかがここで重要になってきます。あなたにとってその恋人は大切で、もっと一緒にいたいのであれば言う通りにして1人の時間を減らせばいいと思います。

ただし前述した2つの例と同様に、これも我慢だとは思いません。なぜなら恋人との時間を我慢していないからです。1人の時間を我慢したのではなく、恋人との時間を増やしただけです。

恋人との時間や恋人を傷つけることを我慢し、1人の時間を増やすこともできます。

 

結局、何かを我慢しているのは何かを我慢しないためです。

 

他人から求められる我慢において重要なことは、あなた自身にとってその我慢に意味があるかどうかだと、僕は思います。その相手が自身にとってどれくらい大切で、望みを聞いてあげたいと思うかどうかです。

 

しかし勘違いしてほしくないのは、望みを聞くために何かを我慢したとしても、それは...。

もうお分かりですよね。

 

以上で、我慢に関する今回の記事は終わります。

 

 

 

 

 

好きなことを仕事にするの本当の意味

今回は好きなことを仕事にするという考え方について、僕が思っていることを書きます。この考え方は多くの人が子供の頃から知っているものだと思いますし、自身の仕事を選ぶ際も、まず自分が好きなことは何かという問いから考える人も多いと思います。

 

この記事では、この好きなことを仕事にするという考え方の本当の意味を、僕自身の見解で述べていきます。

 

まず、僕はこの考え方に賛同しています。仕事は人生の大半を占めるもので、それが好きなことであるということは人生の大半を好きなことをして過ごすということになります。もちろん、好きなことというのは人によって様々です。しかし、好きなことを仕事にして過ごせるというのは多くの人にとって共通して魅力的な生き方だと思われます。

 

しかし、この考え方に否定的な意見も少なからずあります。例えば好きなことを仕事にすると、その好きなことが嫌いになる、趣味の範囲に留めておく方がいい、仕事と趣味は分けるべきだ、などといったものが、僕が思いつく好きなことを仕事にするという考えに対する否定的な見方です。

 

ここからは、これらの否定的な意見に対する僕の考えを書きます。

 

まず好きなことを仕事にすると、その好きなことが嫌いになるという見方があります。

 

結論から言えば、これはその人にとってその仕事はそこまで好きではなかったということです。好きなことを仕事にすることで、それが嫌いになる理由は、おそらく仕事にしたことで求められる技術や問われる責任が増大したからだと考えられます。つまり好きなことを仕事にすると、それを仕事として続けていく上で、辛い側面や苦しい側面がより現れてくるため、好きなことは仕事にせず趣味に留めておいた方がいいと言われるわけです。

 

しかし好きなことを仕事にするという考え方の本当の意味は、この辛い側面や苦しい側面も含めて好きなことを仕事にするということです。例えば、スポーツ選手はその競技が好きであることはもちろん、辛く苦しい練習も自身の成長を実感できるものとして楽しむことができるから、そのスポーツを職業として続けていくことができるのではないかと、僕は考えます。

 

つまり、好きなことを仕事とする上での、辛い面や苦しい面も含めて好きであれば、好きなことを仕事にする方が良く、これが本当の意味で好きなことを仕事にするということだと、僕は思います。

 

また、仕事と趣味は分けるべきという意見についても、僕の考えを書いておきます。

 

前述のように、仕事ととしてやる上での辛い面や苦しい面も楽しめるのであれば、趣味の感覚で行っても全然問題ないと僕は思います。要求される技術や責任は重くなりますが、そのプレッシャーがモチベーションの上昇に繋がるというのであれば、その状況を存分に楽しんでもらいたいし、その方が結果もついてくると思います。また、個人的にこのようなメンタルの人は非常に尊敬できるし羨ましいと思います。

 

以上が、僕が考える好きなことを仕事にするという考え方の本当の意味です。仕事とする上での辛い部分や苦しい部分も含めて好きであれば、好きなことを仕事にする方が良く、それを趣味感覚で行うのも大いに結構だということが、僕の考えです。

 

しかし、辛い部分や苦しい部分が嫌いだからといって、それが好きなことではなかったと考えるのも、また違うと思います。あくまで仕事として続けるのが難しいというだけで、楽しい側面だけが好きだとしても、そのことが好きであることには変わらないため、趣味の範囲で楽しんでいきましょう。

 

 

浮気・不倫はしてもいい

今回は浮気や不倫といった行為について、僕が思っていることを書いていきます。これらの問題は芸能界などに関するニュースで定期的に取り上げられているため、よく耳にすると思います。または他人事ではなく、身近な問題として捉えている人も多いと思います。

 

まず、タイトル通り僕は浮気や不倫は否定しません。何も悪いと思いませんし、自由に行っていいと思っています。前述したニュースに向けられる意見の多くが、これらの行為を否定するものですが、僕はそれには同意できません。

 

浮気・不倫をしてはいけないと考える理由にはいくつかあると思います。今回はこれらを以下の2つに分けたいと思います。

  1. 法律上あるいは倫理上してはいけないから
  2. 相手を悲しませることになるから

 

以上2つの理由を記しましたが、まずは1つ目の浮気や不倫は法律上または倫理上でしてはいけないとされているからについて、僕の考えを述べます。もし本気で浮気や不倫がしたいのであれば、これらのルールは無視していいと思います。男女の付き合いは一対一でなければならないや一夫一妻制といった決まりは人々が勝手に決めたものです。時代や地域が変われば、これらのルールも変わってきます。今の社会においては、このルールを重視する人が多いというだけの話です。

 

ただし注意するべきなのが、もし浮気や不倫ば発覚してしまった場合、別れや離婚を求められたり、慰謝料を請求されたり、社会的に非難されたりしても仕方がないということです。ある人が法律や倫理を無視して自由に浮気や不倫をしてもいいように、他の人が法律や倫理に則って償いを要求したり、侮蔑の目を向けたりするのも自由でしょう。

 

これらを回避するためには、バレずに上手くやり通すか、初めから結婚しないか、浮気や不倫に寛容なパートナーを見つけるかなどの手段を取るようにしましょう。

 

続いて、2つ目の浮気や不倫は相手を悲しませることになるからについて、僕の考えを書きます。この2つ目の理由が今回の記事で本題にしたかったことでもあります。

 

率直に言えば、浮気や不倫をされた方への配慮は無用だというのが僕の考えです。

 

浮気や不倫をしてしまえば、今の相手が悲しんでしまうと思うなら、おそらく浮気や不倫はやめるでしょう。今の相手が悲しんでも他に付き合いたい人がいる、あるいは相手がどう思うかなど考えもしなかったという場合は、そもそも今の相手にはその程度の魅力しかなかったというだけの話です。

 

浮気・不倫をされた側は、浮気・不倫をした側を責める前に自分に何が足りなかったのかを考えた方がいいと思います。相手を浮気・不倫させずに自分に惹き止め続けるだけの魅力がなかった、もしくは相手が浮気や不倫をする薄情な人だと見抜く力がなかった点を反省する方が、今後の人生にも活かせるし、ただ他を責めるより有意義だと僕は思います。

 

最後に、僕の個人的な男女間のあり方について述べます。タイトルや前述にもあるように、僕は浮気や不倫には肯定的です。むしろ一夫一妻などという考えは捨てて、もっと自由に人と付き合えばいいとさえ思っています。ある人が何人もの異性と付き合い、その付き合っている異性もまた何人もの異性と付き合っていて、男女の関係が網の目の様な状態であればいいと考えています。

 

しかし、このような状態になるのは難しいだろうとも思います。人は既存の秩序を維持しようとするものだし、また人には独占欲といった感情もあります。結論を言えば、人が浮気や不倫を否定するのは秩序の維持を望み、また独占欲を満たしたいからで、肯定するのはこれら欲求が弱いか、あるいはないからでしょう。

 

「やりたい」は偶然、「できる」は必然

ちょっと前に、『林先生も驚く初耳学』という番組で、林先生が高学歴ニートの方たちにアドバイスをするという企画をやってました。その中で林先生は「やりたい」は偶然で、「できる」は必然だと仰っていました。

 

今回はこの番組を見て思ったことを、いくつか書いていきます。

 

まず、僕は「やりたい」と「できる」をほとんど区別しません。人が「やりたい」と思うようになるのには理由がありますが、それは人によって様々です。それが好きだから「やりたい」、それをすることで周りから評価されるから「やりたい」、それをすると目に見える結果を出せるから「やりたい」などです。

 

最後の理由、つまり結果を出せるから「やりたい」というのは、簡単に言えば「できる」から「やりたい」ということでしょう。そしてそれを言い換えれるなら、「できる」ことを「やりたい」ということです。要するに理由はなんであれ、最終的には「やりたい」をやっています。

 

林先生は番組の中で、塾講師の仕事や自己啓発本を書く仕事はやりたくないが「できる」からやっていると仰っていました。しかし、それは「できる」からそれが「やりたい」というだけです。もちろん、これを悪いなんていうつもりは微塵もありません。「やりたい」の理由が「好き」だからでも、「できる」からでも、それは個人の自由です。ただ僕は、「やりたい」と「できる」は区別するようなものではないと考えています。特に、林先生のような方にとっては「やりたい」こと=「できる」ことなのですから。

 

次に、それに関連して発言されていた「やりたい」は偶然、「できる」は必然という言葉について感じたことを書きます。

 

正直、この言葉の真意というか、林先生の考えをこの言葉、あるいは番組中のやり取りだけからでは、完全には理解できなかったので、あくまで表面上の言葉から思ったことだけに留めます。

 

まず「できる」も偶然ではないか、と僕は思いました。

 

番組の中で、林先生は聞いている方に対して「100年前に生まれていたら、ゲームを開発したいと思いましたか?」と問いかけていました。僕もこれに対しては「いいえ」と答えるでしょう。まあ、0%とは言いません。もしからすると、天才的なひらめき、未来予知かと思うような先見性から開発したいと思うかもしれません。でも、まあ限りなく無いに等しいでしょう。

 

ただ、これは林先生自身にも当てはまるのではないでしょうか。先生が仮に100年前に生まれていたとして、人に勉強を教えることや自己啓発本を書くことが、今と同じように、「できた」でしょうか?おそらく、上のゲーム開発の例と同じくらい可能性の無いことだと思います。

 

林先生以外でも、例えば元陸上選手のウサイン・ボルトが100年前に生まれていたとして、現在と同じ速さで走ることが「できた」でしょうか?リオネル・メッシが100年前に生まれたとして、現在と同じプレイが「できた」でしょうか?たぶんできなかったと思います。

 

つまり、「できる」も「やりたい」と同様に偶然による要素が多く含まれているということです。

 

また、「できる」ようになるためには「できる」ようになりたい、と思うことが大前提ではないでしょうか。それが好きだからもっと「できる」ようになりたい、周りが褒めてくれるからもっと「できる」ようになりたい、など「できる」の域に達するためには、それを「できる」ようになりたいと思い、努力する必要が少なからずあるでしょう。

 

これを否定することは努力を否定し、才能や生れながらの素質だけを重視するのと変わりません。もし、遺伝や才能だけで「できる」は決まり、それがどのような環境においても通用するのであれば、確かに「できる」は必然でしょう。でも、そんなことが果たしてあるでしょうか。

 

少し言いすぎるというか、極端な考えをすると、全ての人が「できる」を仕事にするためには、どの遺伝子とどの遺伝子を配合すればどのような才能をもつ人間が生まれるか明らかにし、誕生した子供には偶発的な要素を排除するために、極端に人工的な環境で育てる必要があります。また、男女の結婚も計算された才能を生み出すために、あらかじめ決められた人物同士になるかもしれません。全ての人が「できる」を仕事にする社会はとても困難でしょう。

 

 

僕は、林先生の「やりたい」は偶然、「できる」は必然という言葉を聞いて、以上のような感想を抱きました。

 

 

罰則は違反行為をするための代価

最近ふと感じたことなのですが、僕は罰則というものが実はかなり恐ろしいものなのではないかと思うようになりました。

 

罰則とは、簡単に言えば「ルールや規則に違反したものに罰を与える」という意味です。一般にあるものとしては刑罰などがあります。その刑罰にもいくつかの種類があり、死刑や懲役、罰金などがあります。これらの罰則が法律や条例を破ったものには科されます。

 

このことを前提に僕が罰則について思ったことを書いていきます。

 

まずは規則、罰則、違反行為といったものを具体的なもので示したいと思います。

規則=人を殺してはいけない

罰則=死刑あるいは懲役刑

違反行為=殺人

かなり大雑把で、法律に詳しい方々から怒られそうな感じですが、まぁこんな感じでいいでしょう。

 

次に規則を破り罰則が科される過程です。

規則を破る=人を殺す→罰則が科される=死刑あるいは懲役刑を受ける

人を殺す行為=殺人となります。

 

これがごく一般的な流れで、多くの人がこのような解釈をしていると思います。

 

しかし、今回は規則、罰則、違反行為をこれとは違う見方で考えてみます。

 

まず、罰則と違反行為の関係を代価と報酬と考えます。つまり、報酬を得るために対価を支払うのと同様に、違反行為をするために罰則を受けるといった意味です。

 

上の例に当てはめて見ると、

罰則=死刑あるいは懲役刑=代価

違反行為=殺人=報酬

となります。

 

要するに死刑あるいは懲役刑を受ける代わりに殺人ができるというわけです。もう少し言うと、自分の命あるいは人生における時間や刑務所での労働を代価に、他人の命を奪えるということです。

 

僕たちは自分が欲しいと思ったものをそれに見合う価値のあるものと引き換えに入手しています。例えば、お店の商品を代金と引き換えに購入したり、遊園地で遊ぶという行為を入場料を支払うことで可能にしています。

 

世の中の多くのことが代価と報酬の関係で成り立っていると言えます。そしてそれには今述べたお金と商品・サービスの関係だけでなく、他にも様々なものがあります。

 

僕は罰則と違反行為の関係もそれに当てはまると思いました。罰則というものがとても恐ろしいものだと感じた理由はこれです。

 

罰金はもっと分かりやすく例えることができるでしょう。規則で禁止された行為をすれば罰金が科される。逆に言えば、罰金を支払うことで規則で禁止あるいは制限されている様々な違反行為ができるということです。

 

懲役刑は支払う代価が時間と労働、死刑は自己の命つまり今後の全ての人生がそれです。その分可能となる違反行為=報酬も変わってきます。殺人という常識的に見て最も犯してはいけないと言われる行為をするためには、それだけの重さがある罰則を受ける必要が出てきます。しかし、言い換えれば重い罰則を代価とすることで、それに見合う違反行為もまた可能となります。

 

何が1番恐ろしいかと言えば(こんな思考ができる僕という意見は置いといて)、大量殺人と死刑の関係でしょう。加害者が1人で何人もの人々を殺害したとします。もちろん捕まればその加害者はおそらく多くの場合において死刑判決を受けるでしょう。自分の命と今後の人生を捧げて、大量殺人という違反行為をしたわけです。

 

しかしこれはどう考えても理不尽です。なぜなら複数の他人の命を、自分1人の命だけで奪うことができるわけですから、支払う代価に比べて報酬が大きすぎるでしょう。被害者やその家族からすれば到底納得できないものです。

 

以上が僕が罰則について思ったことです。規則や罰則は見方を変えれば、このように捉えることもできると僕は思いました。

 

 

 

 

科学は宗教か

「科学と宗教」

この2つはよく対比として用いられることがあります。多くの場合それは宗教と比較して科学がいかに優れているかを伝えるためだと考えられます。

 

しかし、これとは逆に科学も宗教と同じだと言う人も中にはいます。現代の人々があまりにも科学を崇拝しすぎていることから、科学は1つの宗教であるという見方です。

 

今回はこのことについて、僕が考えたことを書きます。まず結論から言うと、科学と宗教はほとんど同じだが多少の違いがあると、僕は考えています。まあ、元も子もないというか少し逃げた感じの考えに思われるかもしれませんが。

 

では、どの辺りが同じで、逆にどの辺りが違うのかを書いていきます。

 

まず科学と宗教において同じだと僕が判断したことは、どちらも信じることから始まるという点です。これは宗教では当たり前のことで、ある宗教の信者たちはその宗教の神様やその教えを信仰し実践しています。このことはおそらくキリスト教であろうとイスラム教であろうとそのほかの宗教であろうと変わりません。

 

科学もこれと同じです。まずは信じなければ始まりません。宗教では神様や教えでしたが、科学において信じているものとはなにか、いくつか挙げると、無神論や認識できた事実、数学などがあると思います。無論、無神論は当然のことで神様は存在しないということを信じなければ科学的な見方はできないでしょう。

 

また、認識できた事実というものもあります。目に見えたこと耳で聞いたことなどを事実だと信じることが科学には必要です。しかし、このブログの他の記事に書きましたが、僕は人が認識できたことが絶対的な事実であるとは考えていません。

事実とは何か。人は自分が認識できたものしか事実にしない - Human

 

最後にあげた数学についても同様です。例えば数学の問題を考えるときに、我々は1+1=2というもの信じなければなりません。1+1=3と考えてしまっては、その先の問題を解いていくことはおそらく不可能でしょう。物事を科学的に考えるとき、多くの場合それは事実や計算に基づいています。その事実や計算が正しいということを信じる必要があるということが宗教と同じであると、僕は思っています。

 

次に宗教と科学の違いについてです。

 

この2つの違いは信じる対象が異なるということです。文にするとたったこれだけの違いですが、これが大きいか小さいかは人によって違うと思います。これまで書いたように宗教も科学もそれぞれ何らかのものを信じることで成り立ちますが、その中身が異なるのです。

 

僕もそうですが、多くの日本人は宗教よりは科学に立脚して考えたり行動したりしています。それはおそらく科学的な見方の方が実用的だからでしょう。認識できない神より認識できる事実を信じた方が生活しやすいからです。神の教えより数字による公式や証明を信じた方が実際的な効果を感じやすいからです。だから僕たちは宗教より科学を優先して物事を考えています。

 

しかし、逆に実生活や目に見える効果より信仰心を重要視する場合は別です。認識できないだけで神は存在するかもしれないし、信仰によるご利益や天罰もあるかもしれません。

 

まとめると、宗教と科学は信じるという行為からすると同じものではあるが、その信じる対象が違うということです。そのため宗教と科学に優劣はなく、個人が何を重視するかによってどちらを優先するか選ぶものだと、僕は考えています。

 

 

物事の感じ方は人それぞれ違う?

動物には外界の刺激を感じ取る感覚器官が備わっています。当然、人間にもそれはあり、目や鼻、耳などがそれにあたります。人は感覚器官を通じて外の情報を得ることができるのです。

 

しかし、果たしてそれは全ての人間がみな一様に同じものとして対象を感じているのでしょうか。

 

僕は生物学や心理学に詳しいわけでは全くありません。ただふと思ったことを書いているので、すでに答えがあることなのかもしれません。ただ少し疑問に感じ、他の人にも聞いてほしいと思ったため、こうしてブログに綴ることにしました。

 

まず前提として当たり前のことですが、人にはそれぞれ好みがあります。

 

同じものを見ても、聞いても、嗅いでも、味わっても、触っても人によってはそれが好きな人もいれば嫌いな人だっています。

 

ここからは見るということに限定して考えます。

 

繰り返し書きますが、同じものを複数の人が見たとき、それが好きな人もいれば嫌いな人もいます。だって好みは人それぞれですから当然です。

 

しかし、本当に同じものを見ているのでしょうか。本当に人の好みは多様なのでしょうか。

 

僕は可能性として、そもそも人間の目の構造は人によって異なり、そのため視覚による物事の感じ方自体違うかもしれないと思うようにもなりました。

 

他の感覚器官も同様に、人それぞれ微妙に差異があり、それが影響して物事の感じ方が違うのではないだろうか。

 

人によって違うのは好みの方ではなく、感じ方の方ではないのか。

 

世の中には色んな人がいます。目が見えない人や耳が聞こえない人、痛みや味を感じない人など、多くの人とは異なるものの感じ方をする人達がたくさんいます。

 

目が見える人と見えない人が同じものを見たとき、両者はそれを同じものとして感じるでしょうか。そんなわけありませんよね。

 

また、全く目が見えない訳ではなくても特定の色や形を認識できない人も多数存在しています。

 

これが感覚器官の問題なのか、脳や神経の問題なのかは分かりません。ただ、物事の感じ方が明らかに異なる人がいることは確かです。というか、脳や神経にも人によって微妙な差異があるかもしれませんし。

 

そしてそれはおそらく全ての人に当てはまるのではないでしょうか。上に書いたのは極端な事例にすぎず、実際には感覚器官を通じた物事の感じ方に、普段の生活では自分や周りの人だって気づかないような、ごく僅かなズレが人の間にはあると僕は思います。

 

味覚や嗅覚は特に考えやすいと思います。

 

僕はトマトが大嫌いです。トマトの酸味を子供の頃からずっと苦手にしています。しかし、僕には考えられないことにトマトが好きという人もたくさんいます。これは同じ味を感じ、その上で好みが分かれているのか。それとも舌の構造が違っていて感じる味覚そのものが違うのか。

 

よくピーマンやコーヒーなどの苦味は大人になれば美味しく感じるようになるといいます。これは自分の嗜好が変化したのか、あるいは舌に何らかの変化が起きたのか。

 

また、嗅覚においても同じことが言えます。例えば、僕は特に何も感じませんが、納豆の臭いが苦手という人は数多くいるでしょう。これも同じ臭いを感じているのか、そもそも異なる臭いを感じているのか。

 

どっちが正しいのか僕は分かりませんし、これまで書いたことはちょっと変わった見方、くらいのようなものです。

 

結局、今回の記事で何が言いたいかということですが、よく「好き嫌いをなくそう」と言う人がいますが、それを言う人は本当に相手がどう感じているのかを理解できているのか、と言うことです。相手と同じ感覚を味わったとき同様のことが言えるのか、ということを考えてほしいと思います。

 

また、自分の嗜好を押し付けようとする人もいます。でも、その押し付ける相手の感じ方を理解しているのか。相手も自分と同じように感じているなどと思い込むなよと、僕は思っています。