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想ったことや考えたことについて好きなように書くエッセイブログ

「やりたい」は偶然、「できる」は必然

ちょっと前に、『林先生も驚く初耳学』という番組で、林先生が高学歴ニートの方たちにアドバイスをするという企画をやってました。その中で林先生は「やりたい」は偶然で、「できる」は必然だと仰っていました。

 

今回はこの番組を見て思ったことを、いくつか書いていきます。

 

まず、僕は「やりたい」と「できる」をほとんど区別しません。人が「やりたい」と思うようになるのには理由がありますが、それは人によって様々です。それが好きだから「やりたい」、それをすることで周りから評価されるから「やりたい」、それをすると目に見える結果を出せるから「やりたい」などです。

 

最後の理由、つまり結果を出せるから「やりたい」というのは、簡単に言えば「できる」から「やりたい」ということでしょう。そしてそれを言い換えれるなら、「できる」ことを「やりたい」ということです。要するに理由はなんであれ、最終的には「やりたい」をやっています。

 

林先生は番組の中で、塾講師の仕事や自己啓発本を書く仕事はやりたくないが「できる」からやっていると仰っていました。しかし、それは「できる」からそれが「やりたい」というだけです。もちろん、これを悪いなんていうつもりは微塵もありません。「やりたい」の理由が「好き」だからでも、「できる」からでも、それは個人の自由です。ただ僕は、「やりたい」と「できる」は区別するようなものではないと考えています。特に、林先生のような方にとっては「やりたい」こと=「できる」ことなのですから。

 

次に、それに関連して発言されていた「やりたい」は偶然、「できる」は必然という言葉について感じたことを書きます。

 

正直、この言葉の真意というか、林先生の考えをこの言葉、あるいは番組中のやり取りだけからでは、完全には理解できなかったので、あくまで表面上の言葉から思ったことだけに留めます。

 

まず「できる」も偶然ではないか、と僕は思いました。

 

番組の中で、林先生は聞いている方に対して「100年前に生まれていたら、ゲームを開発したいと思いましたか?」と問いかけていました。僕もこれに対しては「いいえ」と答えるでしょう。まあ、0%とは言いません。もしからすると、天才的なひらめき、未来予知かと思うような先見性から開発したいと思うかもしれません。でも、まあ限りなく無いに等しいでしょう。

 

ただ、これは林先生自身にも当てはまるのではないでしょうか。先生が仮に100年前に生まれていたとして、人に勉強を教えることや自己啓発本を書くことが、今と同じように、「できた」でしょうか?おそらく、上のゲーム開発の例と同じくらい可能性の無いことだと思います。

 

林先生以外でも、例えば元陸上選手のウサイン・ボルトが100年前に生まれていたとして、現在と同じ速さで走ることが「できた」でしょうか?リオネル・メッシが100年前に生まれたとして、現在と同じプレイが「できた」でしょうか?たぶんできなかったと思います。

 

つまり、「できる」も「やりたい」と同様に偶然による要素が多く含まれているということです。

 

また、「できる」ようになるためには「できる」ようになりたい、と思うことが大前提ではないでしょうか。それが好きだからもっと「できる」ようになりたい、周りが褒めてくれるからもっと「できる」ようになりたい、など「できる」の域に達するためには、それを「できる」ようになりたいと思い、努力する必要が少なからずあるでしょう。

 

これを否定することは努力を否定し、才能や生れながらの素質だけを重視するのと変わりません。もし、遺伝や才能だけで「できる」は決まり、それがどのような環境においても通用するのであれば、確かに「できる」は必然でしょう。でも、そんなことが果たしてあるでしょうか。

 

少し言いすぎるというか、極端な考えをすると、全ての人が「できる」を仕事にするためには、どの遺伝子とどの遺伝子を配合すればどのような才能をもつ人間が生まれるか明らかにし、誕生した子供には偶発的な要素を排除するために、極端に人工的な環境で育てる必要があります。また、男女の結婚も計算された才能を生み出すために、あらかじめ決められた人物同士になるかもしれません。全ての人が「できる」を仕事にする社会はとても困難でしょう。

 

 

僕は、林先生の「やりたい」は偶然、「できる」は必然という言葉を聞いて、以上のような感想を抱きました。