主観しかない 客観は存在しない
主観と客観
よく「主観的ではなく客観的に見る」などと言われますが、世の中には結局、主観しかありません。
客観とは自分の主観ではなく、他の人の立場から見たり考えたりすることです。
つまり、「客観的に見る」ということは自分以外の周りの人の主観で見るということでしかありません。
「こんなの当然で、それが客観的に見るということです」と反発されればそれで終わりなのですが、ここからが本題です。
「客観的に見るということ」が周りの人の主観で見るとした場合、その見方は一つではありません。
物事を自分以外の立場から見ようとしたとき、その立場は人の数だけあります。
自分の考え方を客観的に見ようとしても、それは誰かの主観を用いて見ることに他なりません。
「それは主観的な考え方だろ」という指摘も、指摘した人物の主観から来たものでしかありません。
自分が美味しいと感じた料理があります。でも他の人は不味いと感じました。
自分が面白いと思った小説があります。でも他の人はつまらないと思いました。
自分が良くないと思った犯罪があります。でも他の人は別にしてもいい犯罪だと思いました。
どれも主観的な見方です。
最後の例を用いて説明します。
自分は誤って人を殺してしまいました。咄嗟の怒りでパニックになっていました。少し落ち着いて自分のしてしまった行為を顧みます。
その人は自分の行為を客観的に見ようとしました。多くの人は殺人は良くない犯罪だと思っています。しかし、中には別にしてもいい犯罪だと思っている人もいます。
その人はどちらの立場から自分の行為を顧みるでしょうか。
後者の立場から見たとしても、それは自分以外の人の立場で見ている点で客観視できています。
また、客観的な考え方は多くの人の考え方だけではありません。
それもまた、多くの主観の集まりでしかありません。
先の例で言えば、多数意見である「殺人は良くない行為だ」という立場から見ることだけが客観的に見ることではないのです。
これはつまり、「殺人は良くない行為だ」という主観的な見方が多いというだけです。
自分を客観的に見つめ直すという行為についても話しましょう。
それも例にもれず、誰かの主観で見るということなのですが、では誰の主観で見るのでしょうか。
家族や友達ですか。
知らない人ですか。
自分が想定できる一般的な見方をする人ですか。
でもそれぞれに主観があります。
自分の都合のいい主観を持つ人々の立場から見ても、客観的に見たことになります。
自分が想定した一般的な主観も持つ人なんて、ほとんど主観的な見方と変わらないでしょう。
また、これでは自分が全く想定できない人物の主観を用いることはできません。他の国や地域の人々など。
もちろん他の人の主観を用いて考えることは良いことだと思います。
他人との付き合いにおいて、相手の主観から自分がどう思われているか考えるとことで関係か良くなるかもしれません。
商品を売るとき、買い手の主観からも見ることで利益が上がるかもしれません。
嫌いな人に対して、その人が嫌がることをしようと思ったとき、相手の主観で考えた方が良い方法を思いつくかもしれません。
社会に溶け込もうと思ったとき、その社会の住民の主観から自分を見ることで、溶け込みやすくなるかもしれません。
客観などとは第三者の主観、もしくは主観の集まりでしかなく本来は存在しない見方です。
「客観的に見る」とはそれらの主観の中の一つないし一纏りから見たものだということです。