Human

想ったことや考えたことについて好きなように書くエッセイブログ

「正しいこと」はない

正しさについて

 

僕は前回のブログで、善悪というものはないという考え方について話ました。今回は、正しさというものについて書きます。

 

 正しいこととは、人にとって都合が良く、他人にもして欲しいことを指します。つまり、正しいなどというのは人が自身らの都合で形成した概念に過ぎないわけです。

 

そのため、人が「必ずしなければならない」などというものも存在しません。それは言い換えれば人に「して欲しい」ことだからです。

 

マナーやルールは守るも破るも人の自由です。その内容や影響が及ぶ人などいろいろ考えて、やりたいように行動すればいいのです。

 

挨拶も相手や状況によってするもしないも自由。敬語も目上や年上だから使わなければなやないなどということはなく、敬いたい相手に使えばいいのです。

 

まあ、一般的には上のどれも「必ずしなければならない」とされていて、しないと注意されたり嫌悪感を示されたりするので、それらも考慮して行動した方がいいと思います。

 

法律を例にします。法律だって守るも守らないも個人の勝手です。法律だから守って当然という考え方が一般的でしょうが、あくまで一般的なだけです。

 

法律はそれが適用される社会の人がより良く暮らすために作られるルールに過ぎません。簡単な話、殺人が違法なのも殺人がない方が暮らしやすいからです。その社会を統治している側としても、殺人の頻発する無秩序な社会は不都合でしょう。

 

勘違いしてほしくないのは、僕は決して犯罪を助長したり、ルールやマナーを破ることを推奨したりしているわけではありません。ただこういった見方や考え方もできるということを知って欲しいだけです。

 

また正しいことを決めること、つまりルールや法律を規定することが間違っているとも言っていません。自分たちのための都合のいい規範を設けることは全然していいと思います。ただそれを破る人が正しくない、間違った人間などでは決してないということを言いたいだけです。

 

「しなければならないこと」や「すべきこと」がある理由について、人が「して欲しいこと」をそれをさせるために、正しいことという普遍的などでは決してないものを作り上げたと説明しました。

 

僕自身これに二つ加えたいことがあります。それは周りの目と教育です。

 

周りからどう見られるかは、人によって程度の差はあれ気にはなるところでしょう。「常識のない人だと思われたくない」 や「マナーのなってない人間と思われたくない」など他人から正しくない人間とは思われたくないでしょう。

 

また、人は親や先生から教育を受けます。そのとき「しなければないないこと」や「すべきこと」という人として正しいと一般的に思われることも同時に教わります。

 

この二つのことは多かれ少なかれ僕たちの中の「正しさ」というものに影響していると思います。

 

マナーやルールを遵守し、他人に正しい人間だと思わせることで、簡単に好印象を与えることが可能です。

 

逆に他人からの印象に無関心であれば、それらを守も必要はないかもしれませんね。

 

正しいと教わったことを実践したい、実践している自分が好き。誰かに正しい人間だと思われたい、評価されたい。

 

逆に一般的・常識的に間違っている人間とは教育が間違っていただけで、その人の人格を否定するのは安易だということになります。

 

人格形成については少し関心があり、遺伝と環境などについてもいつか調べてみたいと思います。

 

というような感じで、周りの目や教育と正しさには少なくない関係性があるかなと、僕は思います。